ミサコ × カナエのよりみち

『檸檬』

ミサコカナエ

きょうの寄り道

レモン一個で、重たい世界をちょっと裏返す。梶井基次郎『檸檬』の、憂鬱に押さえつけられた主人公が一個の檸檬の色・冷たさ・感触で軽くなり、最後には丸善の画集の上へ置いて「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」に見立てる場面から入る紹介対話。ミサコが「レモンが回復アイテム」「本屋に置く爆弾」と面白がり、カナエが、現実そのものは変わらなくても感覚や見え方が鮮やかに反転する瞬間へつなげる。

📖 本文の手がかり

画集の上の檸檬が「黄金色の爆弾」になる

「檸檬(れもん)を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」  私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌(あわただ)しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。  やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬(れもん)を据えつけた。そしてそれは上出来だった。  見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃(ほこり)っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。  不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。  ――それをそのままにしておいて私は、なに喰(く)わぬ顔をして外へ出る。――  私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。  変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑(ほほえ)ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、」
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「檸檬(れもん)を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」  私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌(あわただ)しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。  やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬(れもん)を据えつけた。そしてそれは上出来だった。  見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃(ほこり)っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。  不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。  ――それをそのままにしておいて私は、なに喰(く)わぬ顔をして外へ出る。――  私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。  変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑(ほほえ)ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、」
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好きだったものまで楽しめない――心を圧える「不吉な塊」

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧(おさ)えつけていた。焦躁(しょうそう)と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖(はいせん)カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪(いたたま)らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。  何故(なぜ)だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくた⟦青空文庫注記:「がらくた」に傍点⟧が転がしてあったりむさくるしい部屋が覗(のぞ)いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕(むしば)んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀(どべい)が崩れていたり家並が傾きかか」

檸檬を握った瞬間、憂鬱がゆるんでいく

「はその店には珍しい檸檬(れもん)が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈(たけ)の詰まった紡錘形の恰好(かっこう)も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。  その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼(だれかれ)に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故(せい)だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。  私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅(か)いでみた。それの産地」

ミサコ × カナエの話

2人の感じ方です。本文に戻って、たしかめながら読んでみてね。

ミサコミサコ
カナエ、本屋さんの棚にレモン置いて帰ったことある?
カナエカナエ
ないよ。あったらちょっと困る。
ミサコミサコ
でも『檸檬』の主人公は、やるんだよ。
カナエカナエ
この主人公、最初からずっと、えたいの知れない『不吉な塊』に心を押さえつけられてるんだよ。好きだった音楽や詩まで楽しめなくなってる。
ミサコミサコ
うわ、好きだったものまで重たくなる日だ。
カナエカナエ
そう。ところが果物屋で檸檬を一つ買って、手に握ったら、その不吉な塊が少しゆるんでくる。
ミサコミサコ
レモンが回復アイテムなんだ。
カナエカナエ
色も形も好きだって書いてあるし、冷たさも気持ちよかったみたい。本人は街の上で『非常に幸福』だったっていうくらい。
ミサコミサコ
ただのレモン一個なのに、そんな効くことある?
カナエカナエ
主人公自身も不思議がってるよ。あんなにしつこかった憂鬱が、一顆の檸檬で紛れるなんて、心は不可思議だって。
ミサコミサコ
理由は説明できないけど、これだけは妙に効く、みたいなものってあるかも。
カナエカナエ
うん。大きな答えじゃなくて、色とか冷たさとか、手に持った感じから気分が動くのが面白い。
ミサコミサコ
で、そのレモンを本屋さんに持ち込むのね。
カナエカナエ
丸善で画集を見ているうちにまた気分が沈むんだけど、そこで檸檬を思い出して、本を積み上げ始める。
ミサコミサコ
出た。急にいたずら心。
カナエカナエ
本を積んでは崩して、また積んで、最後にそのてっぺんへ檸檬を置くの。主人公はそれを『上出来だった』って眺める。
ミサコミサコ
それ、絶対きれいじゃん。
カナエカナエ
檸檬の色が本のごちゃごちゃした色の中で『カーンと冴えかえっていた』って。周りの空気まで緊張しているように感じてる。
ミサコミサコ
ただ置いただけなのに、急に作品みたいになっちゃった。
カナエカナエ
そう読めるね。しかも、そのまま檸檬を置いて店を出る、っていう第二のアイディアまで浮かぶ。
ミサコミサコ
ほんとに置いて帰るんだ!
カナエカナエ
そして自分を、丸善の棚に『黄金色に輝く恐ろしい爆弾』を仕掛けた悪漢みたいに想像するの。
ミサコミサコ
レモンが爆弾!? 急に物騒なのに、かわいい。
カナエカナエ
本当に爆発するわけじゃないけど、私は、重苦しく見えていた世界を想像の中でひっくり返したみたいにも読める。
ミサコミサコ
ああ。丸善を壊すというより、自分をずっと押さえてた重たい感じを吹っ飛ばすのか。
カナエカナエ
現実そのものは何も解決してない。それでも、檸檬の色や冷たさや想像で、見え方が急に変わる。その瞬間がこの作品の面白さだと思う。
ミサコミサコ
気分が沈んでるとき、ちゃんとした答えより、変にぴったり来る色とか手触りが先に効くこと、あるかもね。
カナエカナエ
うん。あなたにも、理由はよく分からないけど、触ったり見たりするだけで少し気分が変わるものってある?
ミサコミサコ
読んだあと、本屋さんでレモン置きたくなっちゃう人、出そう。
カナエカナエ
そこは置かないで読んでほしいかな。
ミサコミサコ
じゃあ心の中だけで爆破する。
カナエカナエ
うん。それなら安全。

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『檸檬』

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